大石 智久 (おおいし としひさ、? - 17世紀初め)は、安土桃山時代から江戸時代初めにかけての武将。通称は荒河介(荒川助)。初代対馬藩主・宗義智の家臣。
生涯
大石瀧之介調信(または大石又三郎)の子として生まれる。大石氏は惟宗氏の末裔で、佐護大石原に住んだ彦五郎の時に大石氏を称したという。
天正19年(1591年)2月22日、主君・宗義智より一字拝領し、荒川助(荒河介)智久を名乗った。
文禄の役には、弟・源左衛門智正と共に参戦した。「朝鮮御陣御供人数覚」では、大石党上下38人の筆頭に智久の名が挙げられており、智久は朝鮮に出陣した大石党の主将であった。
天正20年(文禄元年、1592年)4月27日の忠州における戦いの際は、敵の矢に進路を阻まれる中、鎌槍を手に進んで、敵の首3級を獲った(忠州の戦い)。
文禄2年(1593年)1月、日本軍が籠もる平壌城が明軍に包囲された際、智久は敵兵50余人を斬ったという。日本軍が平壌から撤退するのに当たっては、敵が雨のように矢を放つ中、智久は鎧兜を脱いで櫓に上って敵の様子をうかがい、味方にそれを伝えた。これにより小西行長からその勇を賞された。
この他、山猟の際に人々の前で虎と組み合うなど、数々の手柄を立てたという。虎については、弟・智正と共に仕留めたとされる。
慶長元年(1596年)9月には、文禄の役の功により佐護湊に領地を与えられている。慶長6年(1601年)9月、佐護郡を与えられ、佐護郡代となった。
「大石氏家譜」断簡によると、慶長年間に死去した。墓は、明治維新の頃に廃絶したとみられる泊船庵(泊舩庵)の跡地にある。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 鈴木棠三 編『津島紀事 上巻』東京堂出版〈対馬叢書 2〉、1972年。全国書誌番号:73018324。
- 平山棐 編『津島紀事』津島紀事刊行会、1917年、134–137頁。全国書誌番号:43025004。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956888/77。
- 徳竹由明「対馬藩士「大石氏家譜」の断簡を巡って ―大石智久の文禄の役での武功譚・虎狩等―」『中京大学文学部紀要』第57巻、第2号、149–164頁、2023年。https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/records/18990。
- 長崎県教育会対馬部会 編『郷土史料 対馬人物志』村田書店〈対馬叢書 第四集〉、1977年(原著1917年)。全国書誌番号:78029682。
- 堀田正敦ほか 編『寛政重脩諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年。全国書誌番号:21329093。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/327。
関連文献
- 徳竹由明「対馬藩士大石氏の家譜二種」『中京大学文学部紀要』第58巻、第2号、169–188頁、2024年。https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/records/2000398。
外部リンク
- 『大石荒河介』 - コトバンク




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